濡れたこひつじ

なんてことのない大学生の日常

本日記_おらおらでひとりいぐも

どうも、ぬれこじです。

 

今日は若竹千佐子さんで、『おらおらでひとりいぐも』を読みました。

 

実は今ちょうど読んでいる最中なのですが、深い感動を覚えたので途中でパソコンを開いてしまいました。

 

印象に残った文章、少し長いのですが引用します。

 

愛だの恋だのおらには借り物の言葉だ。そんな言葉で言いたくない。周造は惚れだ男だった。惚れぬいだ男だった。それでも周造の死に一点の喜びがあった。おらは独りで生きでみたがったのす。(中略)それがおらだ。(中略)それでもおらは自分を責めね。(中略)周造とおらは今でも繋がっている。はがらいなんだ。周造のはがらい、それから、その向ごうに透かして見える大っきなもののはがらい。それが周造の死を受け入れるためにおらが見つけた、意味だのす。

 

 

驚きました。作者の若竹さんは55歳から小説家を志し、63歳でデビューされた比較的高齢な作家さんということを前情報として知っていたからでしょうか。人の死に、このような受け止め方があるとは。こんなに前向きに、愛を持って、自分を肯定して、こんなに人間深い受け止め方があるんですね。若竹さん自身がその深い人生の中でたどり着いた境地なのでしょう。

 

 

さて。(読了)

この小説の中では東北弁が多用されています。私は福岡出身で多少方言を使うので、主人公桃子さんの方言に対する心情に共感することが出来ました。どこか田舎臭いような手放したいような、でもこれを使っていないと自分でないような。

そんな中に現れた堂々と方言を使い自分を貫く周造。

惚れぬいた桃子さん。

惚れるっていうのは強い力です。惚れちゃったらしょうがないこともあります。

惚れぬいた人生、それはとてもとても尊く、素敵なものだと思います。

その上で、先述の引用部分のような死の受け止め方。

自分の若さは自覚しているつもりでしたが、若竹さんの考えをどんと提示されて、改めて未熟さ、まだまだ新しい考え方を知り成長できるのだという希望を同時に感じ取りました。

 

愛の話でもあり、人生の話でもあり、そんな壮大な話のようでいて、日常の話でもある。

なんとも不思議な小説だと思います。

どうも最近「泣ける小説」から離れるようになっていて、それはどこか読者側が読了後に何かを得ていないといけないような、なにか成長して、その小説から学ばないといけないような圧迫感を抱くからなんですよね。

でもこの小説は何事も強要しません。

何かを学んでも良い、泣いても良い、感動しても良い。何も考えず読んでも良い、読んだ後に考えても良い。途中でやめても良い、何度も読み返しても良い。

そんな暖かさをひしひしと感じました。

 

自分より若い世代の活躍にひやっとさせられるというような経験をする年になりました。

でも、長い人生、日々を重ねてこそ自分の中に得られることがあるんですよね。

人と比べるのでなく、そこに充実感と満足感を得られたら、人生は少し好転するのではないか、とそう思いました。

やはり読書は面白いですね。